2017.8.28.~8.31 四国ツーリング②
次の朝、高知を後にして国道33号線を松山に急ぎました。本来なら、四万十に行き足摺を東回りで回って、西回りから宿毛に抜けて宇和島・・松山のコースを取りたかったのですが、この行程だと楽に250キロはかかってしまいます。当然松山に着くのは遅い時間。仕方なく四万十~足摺は次回の宿題にしました。
このコースを取れば少なくとも4泊5日になってしまいます。滑床渓谷も行けるのですよね・・。だから、次は春か夏場に再度やってくることにしました・・。
国道33号に入る伊野の手前、鏡川の上でバイクのナンバープレートを拾ってしまいました・・。仕方なく届けることにしましたが、生憎駐在所が見当たらず・・、下道を走り伊野警察署に持って行きました・・。
伊野警察署で地図を見てください・・、と拡げて見せられたのですが、老眼鏡が見当たらなくて警察署の備え付けを借りました。手続きをして、それはワタシの手を離れて一件落着でしたが、帰りの船の中で伊野署で借りた老眼鏡がワタシのカバンに入っているのを発見・・・!。わぁ、警察で窃盗をしてしまった~~とびっくりしてしまいましたよ・・。(/_;) 老眼鏡送り返そうかと・・・。(^_^)/~
しかし、うっかりして、話し込んでいる時にカバンになおしてしまったとは、まさに傑作でしたねぇ・・・。(笑)
国道33号線は四国山地の、かなり深いところを通ります。でも、あちこち昔のままの所も多いけれど、以外と発展しているではないですか・・・。(^_^)/~
バイパスも出来ていたのには驚きでしたよ・・。
こんなダムがあったり,山間の集落があったりする田舎道です・・。
山深いところですよ・・。
途中で遍路をされている青年に出会いました。お名前を聞き忘れました(/_;)。お元気で旅を続けられますように・・。(^_^)/~
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メールアドは最後につけておきます。
国道33号では、中土佐でライダーハウスを経営されている方とも知り合いました。お名前を忘れてしまいました。(/_;)
大阪から中土佐にやってこられて頑張っていると言っておられました。
この方はカワサキの 「Z1 900 Super Four」に乗っておられました。これ・・、往年の名車ですよ・・(^_^)/~。40年も以前のバイクですが、現在は300~350万で取引されています・・。すげぇ・・・。(。。)また速いバイクでしたよ・・(^_^)/~。言葉を交わしてお別れしてから、あっ・・という間に見えなくなりました。
ライダーズイン中土佐
0889-40-2233
今度、四万十への旅では泊めていただきます(^_^)/~。
宜しくお願いします・・・。
松山にやってきました・・・。
道後温泉です。この建物の周りを道が出来て、右側の古びた昔の遊郭・・、つい10年前ほどには廃墟のようになって残っていた赤線が取り除かれてきれいになりました。
風呂前の道も車が通れなくなり、すっかり観光地です・・。
横に回ってみました・・。
これは裏です・・。皇族の連中専用の出入り口です。
こうして見れば、古い建物なんですねぇ・・。
太鼓櫓もそのままに・・・。でもきれいに塗り直されていますねぇ・・。
やはり・・、街の中は市電・・。市電が中心ですよ(^_^)/~。
いろんな市電が走っていました・・。(^_^)/~それがまた街に映えるのですよ・・。
秋山兄弟の生家ということです・・。外から見ただけで入っていません・・。どうも300円は高杉さんです・・。だから、パス・・・。これだけで300円は高いような・・。
隣は寺になっています。
ここが門ですねぇ・・。
街の中を歩けば、このようないかめしい私学があったり・・・、
道がカラー舗装されて、すっかり観光化していました。
昔のいでたちが味があってよかったのに・・・。
坂の上の雲ミュージアムです・・。入っていません・・。(/_;)
この門をくぐり、左手の萬翠荘に行きました。
大正浪漫を今に伝える、日本が誇るフランス風洋館
萬翠荘は、大正11年(1922年)旧松山藩主の子孫にあたる久松 定謨(ひさまつ さだこと)伯爵が、別邸として建設したものです。
陸軍駐在武官としてフランス生活が長かった定謨伯爵好みの、純フランス風の建物は、当時最高の社交の場として各界名士が集まり、皇族方がご来県の際は、必ず立ち寄られたところであります。また、裕仁親王(後の昭和天皇)の松山訪問に合わせ、完成を急がせたとも伝えられております。
萬翠荘は戦禍を免れ、建築当時の様子をそのまま残す貴重な建築物として、昭和60年(1985年)に愛媛県指定有形文化財となりました。
その後、平成23年(2011年11月29日)に萬翠荘本館と管理人舎の2棟が国重要文化財に指定されています。
建築その物も美術品ですが現在は、絵画、掛け軸、伝統芸術品、各種イベント、個展を随時行っています。 同敷地内には愚陀佛庵があり句会が行われておりましたが、平成22年7月の土砂崩れにより全壊し、現在は跡地のみとなっております。
久松 定謨(ひさまつ さだこと)
この窓のガラスは大正ガラスですねぇ・・。ワタシにこんな雑学を話させたらもう右に出る人はいませんよ・・。(^_^)/~ 一枚づつの流し込み製法ですのでとても高価なんです。
四角を見てください。この斜めカットが独特な風合いをもたらせるのですよ・・。
この手のガラスは熱海の起雲閣など、残存しているところが極めて少ないです(^_^)/~。
上品な方ですねぇ・・。ここの職員さんは皆さんお綺麗な、しかも上品で笑顔の素敵な方ばかりでした。(^_^)/~
そりゃ、入館料払ってでも入りたいですよねぇ・・、ねっ!。(^_^)/~
萬翠 荘を後にしてから、松山城に行こうと思いましたがバイク専用パーキングは無い・・と断られました。仕方なく城には上がれずです。高知城も上がってませんしねぇ・・。でも松山城も何度も登城していますから、今回はパスです。
街から写真だけを撮ってみました・・。
今のロープウェイ・・、これは昔のワタシが学生時代にもありましたからねぇ・・。楽に城には上がれるのですよ。歩いて上がればかなりしんどかったです・・。(>_<)
正岡子規記念館です。ここは来たことがなかったです・・。出来たのが新しいのかなあ?。
正岡子規について
正岡子規は、慶応3年(1867年)9月17日(新暦:10月14日)、伊予国温泉郡藤原新町(現松山市花園町)で生まれました。翌年が明治元年ですから、子規の年齢は明治の年号と同じになります。本名を
自由民権運動に触発され、政治家をめざして明治16年に上京、第一高等中学校、帝国大学文科大学に進学します。しかし、22歳のときに喀血して「子規」と号したころから真剣に文学を志し、大学を中退して入社した日本新聞社で、俳句や短歌の革新を叫び、新体詩を試み、写生文をとなえました。明治28年からは脊椎カリエスの病苦にあえぎながらも、死の2日前まで随筆「病牀六尺」を発表しつづけて、明治35年(1902年)9月19日に亡くなりました。
「写生」に根ざした子規の文学は、多くの仲間とともに子規山脈を形成し、近代文学史上に輝いています。
子規の暮らした家が再現されています。
漱石と子規です。
何処かのオッサンが子規の家に上がり込んで・・・(>_<)。
これらは子規の自筆ですよ・・・。いい物を見せてもらいました。(^_^)/~
子規の死期の様子です・・。
明治の文豪の実物大とワタシ・・。
子規の実物大とワタシ・・。
記念館をあとにして、あてもないままぶらりと街を走り周り、夕飯を取ってからこの日の宿泊ユース・・、松山ユースにむかいました。昔の神泉苑とは違う場所に建てられたユースでした。
びっくりするのは湯快ガーデンの隣でしたよ・・。(^_^)/~
歩いて上がるのは少ししんどいかも知れません・・。
登りは曲がりながらの登り坂です。この日も一般のホステラーはワタシだけで、あとはマレーシアの学生さん達でした。愛媛大学との交流をされていたようです。
オンナの子と二言三言挨拶を交わしただけで、話すことも全くなかったですよ・・。
次の日、洗面所で財布の忘れ物を見つけ、ペアレントさんの代理に届けました。(^_-)
外国でオアシをなくせば学生さんお困りでしょうからね・・・。
しかし、夏とは言え旅の若者がいないのにはびつくりでしたよねぇ・・。松山はとても人気ユースでしたのにねぇ・・。
そう言えば、街の中にあったダウンタウンユースも現在は閉鎖されていますねぇ・・。ここのペアレントの経営でした。現在はゲストハウスとして経営しているとか・・。
北海道でもそうでしたが、夏のさなかで部屋にひとり・・なんて、全く考えられないことでしたね。
四国ツーリング③は10月になってしまいます。また間が開くのが残念です。
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