夏の終わりに その1 福山城
尾道と鞆の浦に行ってきました。結構近場ですが1泊して帰ってきました。
ホテルは景勝館漣亭(さざなみてい)ですよ・・。今回はママさんとです。ワタシひとりなら、たいていビジネスですが、ママさんと二人ならばプリンス系とか、センチュリー系など結構ご満足ホテルです。もっとも支払いはワタシではありませんが・・・(^-^)。
ママさん、海の見える本館を予約していました。少し高いんだって・・。
新大阪からです~・・・・。
向かいのホームに九州新幹線のみずほが止まっていました。去年だっけ・・、一昨年になるのかな?、長崎にも行ったんですよ。
乗り込んだのは「のぞみ」です。
駅を降りるとすぐ目の前が福山城。いつも新幹線から見ることは多かったのに、この駅で降りたのはこれで2回目です。でも一度目は所用で観光なんて無縁でした・・。
あの石段を上がればいいようです。
やって来ました大手門。でも、この城は復元ですよ。それでも胸がときめきますねぇ(^-^)。
復元天守閣の凜々しいお姿です・・。城はボロい方がいいのですが・・。でも、何処もすべて手が入っていますよね・・。
松山城もそう。四国の城は木造で重みと深みがあるのですが、天守の最上階回廊に手すりがついたなんて興ざめです・・。昭和40年代は手すりがなかったのですよ・・。
これは由緒書き(^-^)。きちんと「城跡」と記されているのが良心的です。
天守閣の中は博物館です。一部だけ抜粋して載せてみました。あくまで写真撮影は禁止なんですよ・・。写真は禁止ですよ・・。
こ、これは鎌田呉陽じゃないですか・・・。花鳥画はワタシの好きなジャンルなんですよ・・。知らない人のために、「エヘン!。」と咳払いのひとつなどもして説明しますと、四条派「松村呉春」の門下ですね・・。四条派ってのは、江戸後期にはかなり名の知られた派閥でして、円山応挙の模写に近い作風です。もともと呉春さんは円山応挙先生の弟子なんですよ。ですから写生重視は応挙先生ゆずりです。
応挙先生もちなみに江戸中期から後期に名の知られた御方ですが、ちなみに応挙先生一門は「応挙派」と言います・・。
呉春さんは応門十哲には名を連ねることはできなかったんですねぇ・・。
この水墨画は福山藩「阿部正弘」のお抱えさんの吉田洞谷ですわぁ。作風があっさりしているように思えますが、結構緻密なまとまりのある画風に仕上がっているのが特徴です。狩野派の特徴もよく現れています。明治まで生きて、晩年は画学校を設立したとか・・・。
ついでに「阿部正弘」を説明しておきますが、福山藩7代当主ですワ。幕府の老中職を勤めて、「安政の改革」を断行したのですよねぇ。なになに・・、知らない?。日米和親条約を締結した張本人ですよ。でも、勝海舟とか高島秋帆なんかは正弘さんに目をかけてもらったんですからね・・。この人は長崎海軍伝習所の設立者でもあるんです・・。
へぇ~~、こんな顔してたんだ・・。
福山近辺は縄文期からの遺跡がごろごろ出てきます。とりわけよく知られているのが鎌倉から室町期の草戸千軒遺跡。これは昔の人なら中学校で習ったことがありますよね・・。(^-^)この町は洪水で滅びたと言われているのです。今でも遺跡の名残が発掘されるのです・・。博学やなあ~。! てなことはないか・・・・。(^-^)
天守閣から街を見下ろします。ワタシはこんな光景が大好き・・。何処までも道が延びている様子にこころがトキメキます。趣味・・、道の撮影。
降りてきて天守を見上げて一枚。
これは鐘楼の復元です。城内に鐘楼のある城ってそう無いのです。実は城のマニアでもあります・・。なんでもマニアかなあ(^-^)。全国の城はたいてい覗いていますねぇ。天守に入れなかったのは弘前城だけでした。20年前、トタンで入り口を打ち付けてありました。いま改装中らしいです。
大手門の内部からです。
外へ出るとすぐ新幹線と在来線が・・。これから在来線で尾道に向かって急ごうと思います。でもまだ11時22分。陽は長いです。(^-^)
人が少なくて、城の中にもこの日は2人だけ・・。こんな事ってそう無いですよ。
< 芸術家の先生からメールを頂きました。その受け答えの一部です。>
こんにちは。
ブログ拝見しました。
日本画にお詳しいのですね。
わたくしは油画専攻だったせいか日本画には疎く、魔法耳さんのように、日本画にはどのような派があって、またどんな絵師がいて、それがどんな画風であるかということはよくわかりません。
とにかくどんな絵であれ緊張感があるやつが好みですね。
日本画は西洋画に比べると平面的で装飾的要素が強いですが、絵の緊張感の有無は別の要素ですから、例えば「伝源頼朝像」、俵屋宗達や尾形光琳、変わったところでは宮本武蔵の作品が好きですね。
雪舟も緊張感があってそれはそれでいいのです。
でも彼は、水墨画のパターン化した描法から脱して写実性を目指したんではないかと思うのですが、水墨画という手法から、その限界を超えられなかったんでしょうね。
その中途半端さがもひとつ好きにはなれませんね。
緊張感というのはひとえに色彩と形が織りなす構図から発するものですが、これは持って生まれた天性から出るものですから、なかなか難しいものがあります。
<その返事の一部です。>
ブログの更新が出来ましたけれど、日本画の説明の間違いもあるかも知れないです。あればご指摘ください。
琳派とは違った趣が、応挙には見られますよね・・。同門(応挙派)の十哲の芦雪と南岳では同じ派閥でありながら作風がやけに異なるのですが、これは本人たちの視点の違いかも知れないですねぇ。でも、描写力・・・写生力はとても似通っているところもありますので、これは応挙先生の指南かも知れないです・・。この人達の作品は展覧会ではほとんど出てこないのです。有名でありながら知られていないという致命的なところでしょうか・・。江戸中期以後は日本画も丸味を帯びてきている・・、いや成熟の域に達しているというのは棄てがたい魅力ですね・・。
あまり素人考えを芸術家に話すのもはばかられますから、まあこれはここまでに致します。何とぞご容赦ください。
皆さま方も屈託の無いご感想、ご指摘等宜しくお願い致します。ペコっ!m(_ _)m